引き続き、ピアノの話・・・。
通っていたピアノ教室は夏に発表会がありました。小5から高校入学くらいまで5年間習っていたにも関わらず1回も出演したことがありません。今思うとピアノを習っておきながら発表会に一度も出ないという人はいなかったのではないでしょうか。発表会に向けて練習するという一般的な流れには乗らない謎の男の子でしたね。
教室内で行う5人程度のクリスマス会には参加したことがあったくらいです。今となっては目立ちたがり(音楽をやる上でアピールは大事)ですが、ある意味では自己表現が下手な年頃だったと振り返ることができます。
中学校では合唱祭が音楽イベントとしてピアノ弾きが輝く場ですが、合唱曲の伴奏をすらすら弾けるほど技術がないので伴奏を担当したことも一度もありません。中2の3月に卒業式のBGMを弾いたのが唯一、校内でピアノを披露した機会でしたね。上手な女子はショパンの「別れの曲」なんかを弾いてしまうわけですが、私は「いい日旅立ち」の簡単なアレンジを弾きました。選曲が良い具合に古いです…。技術は負けるが表現力で何とかしてやるという謎の対抗心がありました。原曲の「いい日旅立ち」を聴き、オブリガートを耳コピして付け加えたのは今でも覚えています。音楽の先生からも「味がある演奏」と言ってもらえたのは嬉しかったですね。
前後しますが、ピアノ経験が中途半端にあって苦労したことがあります。それは中1の2学期に入ったあたりのことです。吹奏楽部が県内の選抜大会に地区代表として出場することになりました。課題曲と自由曲の2曲を演奏するのですが、なんと課題曲でチューバではなくピアノを弾くことになったのです。まだ習い始めて3年目のチンチクリンだったのに顧問の先生に指名されてしまいました。ピアノを弾いているところなんて顧問の先生に聴かれたことはなかったはずなのに…。ただ、鬼のように恐ろしい昔ながらの先生だったので何が何でも弾かなければなりません。普段弾くソロと違って吹奏楽と一緒に弾くピアノは音量、指揮者とのタイミングという難しさがあります。
ただし、1番の問題はそこではありませんでした。それは楽譜でした・・・。浄書されていない写譜屋がメモのように書いた楽譜だったのですが、恐ろしいことに音符が丁寧に書かれていないのです。書いてあったのはリズムとコードだけ。それを夏休み明けの中1が読めるようにならないといけないのです。しかも顧問の先生は、コードを教えてくれるわけじゃありません。この時は、さすがに泣きつく思いでピアノの先生に相談しました。コードの読み方を教えてもらい、なんとか週末の合奏に間に合わせるという日々が続きました。追い込まれると何とかなるもので合奏にはそれなりについていった記憶があります。
この話は今でも恩師との間で笑い話になるのですが、本当にひどい無茶ぶりでしたね。おかげさまでコードの基礎を中1の秋には体得することができました。コードを覚えるとポップスのアレンジ譜なんかは自分で左手を自由にアレンジするようになっていきます。技術がないほうだったので簡単に弾けるように変えてしまうのです。簡単には弾けるけど聴き劣りしないようにするにはどうしたらいいのか中学生なりに工夫していました。実は、この編曲観については、吹奏楽の曲をアレンジする今も全く同じなのです。コードを分解してスコアに音をはめていく。しかも無理のない音域で簡単に。でも、しっかりと響いていく。私の書く吹奏楽曲はグレードとしては簡単なものが多いです。そういったコスパの良さや編曲観は、自分がピアノが下手だったからこそ身につけたものだと思います。もし、練習に熱心だったり天才肌だったりピアノを習い始めるのが早かったりしたら、もっと難しい曲を書く作編曲者になっていたかもしれません。こう考えるとスタイルは変わっても音楽遍歴というものは繋がっているのだなと感じます。