「鬼姫」と呼ばれるものは「宇治の橋姫」の伝承がルーツとなっています。「橋姫=鬼姫」という恐ろしいイメージは鎌倉時代以降に定着していきます。鎌倉時代以前(平安時代)の橋姫は以下のような文献に登場します。
『古今和歌集』 第14巻 詠み人知らずの歌
さむしろに 衣かたしき 今宵もや 我をまつらん 宇治の橋姫
大意:「むしろに」自分の衣だけを敷いて独り寝ては、 今宵も私を待っているのだろうか、宇治の橋姫は
『源氏物語』の第45帖(宇治十帖)「橋姫」
橋姫の 心をくみて 高瀬さす 棹のしづくに 袖ぞ濡れぬる
大意:橋姫のような寂しい姫君の心を察して、浅瀬にさす舟の棹の雫に袖を濡らすように私も涙で袖を濡らしています。
平安時代の『古今和歌集』『源氏物語』の中の「橋姫」は、美しい女性、愛しい女性というイメージなのです。これが、鎌倉時代に成立した『平家物語』の異本である「源平盛衰記」の「剣巻」の中では今日に伝わる「鬼姫」のイメージが描かれているのです。
そもそも「源平盛衰記」とは・・・
鎌倉時代の軍記物語。四八巻。作者、成立年代ともに未詳。源平の興亡、盛衰を多くの挿話、伝説、故事をまじえつつ描く。「平家物語」の異本の一種とみられる。(『日本国語大辞典』より)
「源平盛衰記」には以下のように書かれています。
嵯峨天皇の御宇に、或る公卿の娘、余りに嫉妬深うして、貴船の社に詣でて七日籠りて申す様、「帰命頂礼貴船大明神、願はくは七日籠もりたる験には、我を生きながら鬼神に成してたび給へ。妬しと思ひつる女取り殺さん」とぞ祈りける。明神、哀れとや覚しけん、「誠に申す所不便なり。実に鬼になりたくば、姿を改めて宇治の河瀬に行きて三七日漬れ」と示現あり。
これをKMDが現代語訳すると・・・(本業は、国語の先生です)
嵯峨天皇が国を治める時代にとある公卿(貴族)の娘が妬む気持ちに深くとらわれ、貴船神社に7日間こもって「貴船大明神よ、私を生きながら鬼神に変えて下さい。あの妬ましい女を取り殺したいのです」と祈りました。その祈りを聞いた明神は娘をかわいそうに思い「本当に鬼になりたければ、姿を変えて宇治川に21日間浸れ」と告げたのでした。
このようにして宇治川に21日間浸ると、貴船大明神の言ったとおり生きながら鬼になりました。「宇治の橋姫(鬼姫)」の誕生です。鬼となった橋姫は、妬んでいた女を殺し、その親族や恋人などを次々と取り殺していきます。男を殺すときは女の姿となり、女を殺すときには男の姿に化けます。
その頃、源頼光の四天王の1人源綱が一条大宮に遣わされました。鬼姫が出て夜は危険なので、名刀「鬚切(ひげきり)」を預かり、馬で向かいます。鬼姫に遭遇した源綱は、鬼の片腕を切り落としたのでした。のちに、この名刀は「鬼切」と呼ばれ別の伝説でも度々登場するようになります。
この「宇治の橋姫」の伝承が、丑三つ時に藁人形を打ち付ける呪術的儀式「丑の刻参り(うしのこくまいり)」の原型ともいわれています。
この儀式は、午前1時から午前3時ごろ神社の御神木に藁人形を釘で打ち付けるという呪術。嫉妬心に支配された女性が白装束を身にまとい、灯したロウソクを突き立てた鉄輪を頭にかぶって行うものです。7日間続けて行う必要があるが、途中でこの行為を他者に知られると効力を失います。ゆかりの地は京都市にある貴船神社。ただし、この神社は24時間開門していないのでこの儀式を行うことは現実的にはできません。もちろん科学的に効果があると実証されたわけではなく、一種の自己暗示(ノーシーボ効果)といえるでしょう。よい子は真似をしないように!!
まとめると・・・
一人の女性を鬼に変えた理由・・・それは、異常なほどの嫉妬心でした。
「嫉妬」とは:自分の愛する者の愛情が他にむくのをうらみ憎むこと。
恨むという負の感情が人を殺めてしまうことは恐ろしいことではございますが、その根底にある愛の存在をぜひ知っておいてほしいと思います。
※画像についても引用させていただきました。